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セザンヌ3

セザンヌのサント・ヴィクトワール山を描いたシリーズ、ブリジストン美術館で観たのか、雑誌の特集で観たのか、記憶が曖昧なのですが、このシリーズ作品のどれか、を観た時、その描き残しの多さにびっくりしました。
キャンバスの白地がとても多いのです。あちこちに塗られていない部分がそのままに。
筆の動きは画面に描くと言うよりは、小さい面のようなタッチで絵の具を置いていく、そんな感じでした。ゴッホが直線的な筆の線の重なりで描いていくのとは反対に。

描かれているのは、山とそれをとりまく森の絵なのですが、ほとんど抽象画みたい、リアルな風景画ではありません。もうほんのちょっとで立体派の絵と見間違いそうな作品。え、これってキュービズムの作品なのって。

本来、西洋の絵、油絵というものはびっしりとすき間なく描写で覆われ、重厚な額物に守られ、美術作品として堂々とそこにあるもの、だと高校生の私は信じこんでいたのです。
けれどもその絵は未完成なのか、あるいは単なる下書き、スケッチなのか、地のキャンバスがそのまま塗り残されてます。こんなにも大胆に塗り残しを放置した絵があったでしょうか。

私は初めてキャンバスの「地」というものを意識しました。セザンヌが「これは布地に絵の具で描いた絵です」と普通に言っているかのよう。あまりにもアタリマエのことを言われたようで不意をつかれた感じです。

セザンヌはきっと、何か意味を表すために絵を描いたのではなく、シンプルに純粋に「絵」を描いたのです。
自然物や人工物は立体のかたまりに還元され、それ自体の意味を剥奪されている。神話や宗教画や風景画や肖像画など、「絵画」を決まり事、役割から開放したのです。
絵画を意味という呪縛から解き放ち、具象から抽象という新しい絵画の表現を提示したと思います。
それは余白という塗り残しから新しい概念が芽生えた瞬間ですね。

昔、ナビオで開かれた大ピカソ展(200号とか大きいものばかり)の作品も随分塗り残しがありました。これは晩年のピカソがキャンバスにクロッキーや素描の感覚で遊び心で描かれたものだから天真爛漫、自由闊達。
つまりピカソがそんな絵を描けたのもいわばセザンヌの恩恵なのでしょう。
サント・ヴィクトワール山を描いたシリーズはそんな二十一世紀絵画の故郷のようなもの、原点、指標、黎明なのかもしれません。

私がそれらから感じたのは「見えない地」という概念です。
文字を書く紙の地、タペストリーや刺繍の地、建物の地、自然の地。私たちが生きる地。
絵がキャンバスという地の上に描かれたもののように、それらは『地」なくして存在できません。地に描かれている私たち、その地に生きる私たちには「地」を見ることはできません、だから見えない地なのです。

その感覚を直感的に表現した映像が黒澤明の「夢」のなかの「鴉」という作品。
ここではゴッホの絵を観ているものがいつの間にか絵の中に入って動きまわります。絵の中を三次元の人間が歩いていくのです。彼は自分がキャンバスという地に生きていることを知っているのだろうか。

これもまた、絵にとってのキャンバスという「地」を見事に映像として描いています。二次元だった絵のなかに三次元の視点が持ち込まれ、逆に絵画というものは地によって成り立っていることがわかるのです。

絵とキャンバスの関係と同じように、私たちの存在も地球という「地」によって生かされているのでしょう。

img_844303_54623741_0.jpeg
セザンヌ2
セザンヌ1
絵ザンヌ4

黒澤明 「夢」5ー鴉

2013.06.27 Thu l 画家のお話 l コメント (0) トラックバック (0) l top


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