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甘えたいときには抱っこせよといきなり迫り、飽いた時には振り向きもせず、あーもうええわとスタコラどこかに雲隠れ、いつのまにやらもて遊ばれたような感じ、というか絶妙な距離感で同居人を感心させてくれる猫と私と、いったい何がどう違っているのでしょうか。

例えば遺伝子構造が違うとか、三本毛が足りないとか、数字やカタチで測定できるところでは色々指摘も出来るのだろうけど、猫に限らず、ワンちゃんもその他の動物、生き物は人類と比べて、何がどう違うのだろう。

よくお魚は、痛点が少ないから釣り針で釣り上げられても痛みはないとかいう話とか、動物に痛みや悲しみを感じる心はないだとかいう製薬会社や化粧品会社の動物実験を担うマッドドクターとか、遺伝子操作の学者とか、まるで自分が体験してわかっているような素振りで語るけれども、そんなこと本人でもないのにわかるはずがないのは太古からの宇宙の理であって、アホかいなと、思いまする。

痛みはどんな生き物も共通して持っている、生存のための大事な大事な感覚。痛いものは痛い。だからお魚も動物も生きながら殺されるのはめちゃめちゃ痛いだろうとおもんばかる、それが人の人らしさ。
活造りなんて狂気の沙汰。動物実験の悲惨さは喩えようがないほど悲しい。
意識と肉体がどのようにつながり合って生き物が成り立っているか、そんなことは神様でもわからないこと、人間の傲慢ここに極まれりです。
これではあんまり生き物たちが不憫なので、なんとか理屈を考えてみなくては。彼等動物たちに救いはあるのか。

私たちはいつも「私」という意識のなかで世界を感じています。あたりまえですね。
「私は悲しい」「私は痛い」「私は嬉しい」「私は楽しい」
ぞれが私たち人間の心の根底にあるのですが「私」という、あるのか無いのかはっきりわからない、曖昧模糊とした私。多分あるのでしょう。私たちは意味を生きる生き物ですから。「私」を持っている以上、人は私という檻から脱出できないです。

では、そこから「私」を取ってしまえばどうなるのでしょう。私を消してしまう。私という意味を消してしまう。
「悲しい、がそれは私ではない」「痛みはある、がそれは私ではない」「嬉しい、けれどそれは私ではない」「楽しい、けれどそれは私ではない」というふうに。
彼等生き物たちは、このような本能の感覚で生きているような気がします。それは世界に存在するもの全てを同じように重要なものとして感受する皮膚感覚、言語を介さない直観で全てを感じる力。
例えば石ころも葉っぱも水も食べものも明るい日差しも冷たい北風も、すべてが大切なものとして等しい。彼等にとって世界に境界はないのでしょう。

私と猫と、どこが違うかっていうと
クロコにとって「私」というものはないのです、きっと。
それが生き物の無垢、イノセンス。

もう表現が下手くそですね、ごめんなさい。
つまり彼等はどういう状態であっても世界と同化している存在、世界のなかで世界の一部として生きている。それに比べて言語や意味を生きる人間は世界の前で立ちすくんでいる、決して世界の中に入れない生き物です。

これっていろんな人が語っている世界観かもしれない、私はもういろいろな仏教的、禅的な考え方に影響されすぎ。でもこのお話ではダメでしょうね。生き物たちは納得出来ない。やっぱり、人間は、私はずるくてバカです。

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moon river naomi & goro


ボサノバは苦手な分野なんだけど、この人の声はいいな、素敵。いまさらですがmoon riverは私のなかのフェバリット・スタンダード。naomiさんの歌はまったりしたお昼寝にぴったりな子守唄。
「三月の水」も猫の玉遊びや猫じゃらしごっこにぴったり。弾むような足音が聞こえてきそうです。

naomi & goro 「Águas De Março」三月の水
2013.11.11 Mon l タキシード猫クロコ・プリンセス l コメント (0) トラックバック (0) l top


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